そして夏休み。今日から塾の夏期講習、由理が待ちに待ったものがこれだった。由理が登録したのは、有名中学進学のための特別進学コース……塾の中でもトップクラスの人のための講義で、もちろん、今川孝彦も参加するはず……。普通の学期中の塾では、来ている曜日の違いですれ違っている由理にとって、今回の特別コースはまさにチャンスだったのだ。

(今日で、ついに孝彦くんに会える……って、私、何考えてるんだろう。勉強、勉強のために来てるんだから。で、でも、やっぱり気になっちゃうの……)
 教室の扉の前で、開けようか開けるまいか逡巡する由理。そんな彼女の肩を、後ろからやってきた清香がぽんっと叩く。

「おはよう、由理。どうしたの、中に入らないで、ぼーとして」
「えっ……なんでもないよ。ただ、ちょっと昨日の夜、考え事をしてて睡眠不足なだけ」
 眠気で少し潤んだ瞳をごしごし擦りながら、由理はがらっという音とともに扉を開けた。なにげないふりをしながら、彼女の視線は教室の中を探るように移る。そんな由輪の様子に、清香はくすくすと笑いながらある方向を指さした。
「ほら、今川くんなら、あそこに座って話してるわよ」
「もう! そんなこと、今、関係ないじゃない……」

 口ではそう言いながらも、由理の目は指し示された方向に向けられる。教室のちょうど真ん中ほど、椅子に腰掛けて友達と話をしている男の子に……。
(あ、ちょっといいかも……)
 そんな由理の表情を横目で見ながら、清香がさらに続ける。
「ね、結構、格好いい男の子でしょ。由理、気に入った?」
「べ、別に……さ、席について予習でもしようっと」

 清香の言葉に不自然なほど無関心を装いながら、由理は教室の中に入っていく。つかつかと中央の前よりの席……ちょうど孝彦たちの前方あたりに着席して、鞄をごそごそと開きテキストを取り出す。
(うーん、何、話してるんだろ……ちょっと、気になるかな……)
 隣に座っておもしろそうにこっちを見ている清香の様子を気にする由理。しかし、目だけは手にしたテキストの文字を追いながらも、耳は後ろから聞こえる孝彦たちのおしゃべりに引きつけられてしまう。

(……全く、何を話しているのかと思えば、昨日の夜のテレビの話とか……ふんっ……つまんないっ)
 普通ならなんでもないと思える彼らの会話。しかし、昨晩、孝彦のこと、今日会えることを考えて眠れなかった由理にしてみれば、彼が、けろっとしてそんな話をしていることさえ腹立たしいのだ。

(あっ、あんな事まで話してる……やだ、やだ、もうがまんできないっ!)
 彼らの話は、講義に来ている女の子たちの品定めに移る。あの子がいい、この子はかわいいなあ……そんな男の子たちの話声。本人たちはこそこそ話しているつもりかもしれないが、聞き耳を立てている由理にははっきり届いてしまう。
 とうとう孝彦たちの話の矛先が自分たちに向かう。その瞬間、由理は、机をばんっと叩きつけて立ち上がっていた。

「……あなたが、今川孝彦ね!」
 由理は、孝彦たちのところに近づくと、びしっと彼を指さして声をかけた。ちょっとつり上がり気味の目でこちらを見つめる少女、そんないきなりの出現に男の子たちはみんなびっくりした顔をしている。
「まったく、さっきから馬鹿みたいな話ばかりして。恥ずかしいと思わないの!」
「……な、なんで俺の名前……もしかして、お前、新井由理?」
 指さされた男の子……孝彦は、突然名前を呼ばれたことに驚きながらも、何かに気づいたような表情でそう答える。

 彼が、なぜか自分の名を知っている。いつもなら疑問に思うはずのことなのに、頭に血が上った状態の由理は気づかない。ムッとしたような顔つきで、彼女は孝彦の言葉にうなづいていた。
「ふーん……お前、もうちょっと算数とか頑張ったほうがいいぜ。暗記科目しかできないっていうのは、自分が理解力がありませんって言ってるようなものだし」

(なっ……こ、こいつは……)
 孝彦のあまりの言葉に、由理の顔がみるみる赤く染まっていく。暗記力に比べて、考えて解かなければいけない問題を苦手とする由理……自分のそんな弱点を、初対面、しかも一番言われたくなかった相手に指摘されて、彼女のイライラは頂点に達する。
(こっちは、あんなにドキドキしてたっていうのに……平然としてるだけならまだしも、この言いぐさは何っ!……)

「あんたこそ、もっと社会科の勉強したほうがいいわよ。きちんと歴史とか地理とか知っていないと、立派な大人にはなれないんだから」
 怒っている表情を必死で押し殺し、由理は、努めて冷静な口振りで辛辣な言葉を投げ返す。
「よ、よくも言ってくれたな……」
「ふん、こうなったらね……」
「勝負だ!」
「勝負よ!」
 ぴったりとハモる二人の声……離れた所で見守っていた清香は、なんだ息合ってるじゃない、と笑みを洩らしていた。