「和泉君、お疲れさま! 今回の案件をよく物にすることができたな!」
部長の飯山が契約書を見ながら、それでなくても細い目を更に細めて和泉雅にね
ぎらいの言葉をかけた。
「はい、ありがとうございます」
「本郷がボーッとしているうちに他社に持っていかれるところだったのを、よく
うちに引き戻したな!」
「最近本郷さんが他のお客様のところに行ってばかりいたので、私が勝手に担当
方に電話をしたんですが、その時に他社製品に決まりそうだという情報をいただ
いたので急遽お伺いしてなんとか契約を待っていただいたんです」
「本郷は営業になって何年経ってるんだ、全く....後輩の和泉君におんぶに
抱っこだな...」
「でも私は営業支援の技術ですから、当たり前のことです。 本郷さんはお客様
をたくさん持っていますし...」
「まあ、部下を持っている営業リーダーだからな、本郷は....もう少し自覚
を持ってもらわないといけないな」
飯山が本郷に対してのグチを言い始めたので、雅は逃げようと思って腕時計を見
た。
「それでは、私はこれからアポがありますので....」
「おう、そうか! 今度、本郷に奢ってもらうといいぞ!」
「はい、そうします」
ニッコリ笑うと、雅は飯山に背を向けた。
「あっ、忘れるところだった...和泉君!」
自分の席に戻ろうとした雅に飯山が声をかけた。 振り返った時にショートボブ
の髪が雅の美しい顔の周りを円を描くように揺れ動き、甘い香水の香りを周囲に
まき散らした。
雅の髪はオレンジ色のマニキュアをしていて、光沢のある髪に光が反射すると黒
い髪がほんの少しオレンジがかる。
「なんですか?」
「和泉君は、ここのところ全然休みを取っていないだろ? 土日も出勤している
し、有給も全然取ってないんじゃないか?」
「はい....でも忙しいですし、休んでると逆に気が休まらなくて....」
「そんな事じゃ身体を壊すぞ。 和泉君に倒れられたら大変だからな」
「ありがとうございます....」
「本郷の件も片づいたことだし、時期的にも忙しい時期じゃないから代休と有給
を一緒に取ったらどうだ?」
「え、ええ....でも....」
「君の部下だってもう一人前なんだから、任せておけばいいだろう。 何かあっ
たら携帯に連絡するようにしておけばいいんだから」
「それは、そうですけど...」
「代休は何日あるんだね?」
「確か10日ぐらいあったと思いますが....」
「ちょうど弟さんも学校が終わりだろう? たまには姉弟仲良く過ごしなさい。
 これは部長命令だ、いいね?」
「はい...気を使っていただいてありがとうございます」
「それじゃあなるべく早いうちに休みを取りなさい。 プライベートも大事にし
ないと仕事も一生懸命できないぞ!」
「はい、わかりました。 それでは、月曜日に休暇届を出させていただきます」
自分の席に戻った雅は黒いなめし革の鞄に資料一式を入れると、席を立った。
トイレに行くとポーチから口紅を出して唇に塗っていく。
雅は化粧はほとんどしない方で、口紅がせいぜいであった。
トイレから戻って椅子にかけた上着を真っ白いブラウスの上に着ると、ボタンを
はめながら競合製品の調査をしている2年目の村山に声をかけた。
「村山君、私は外出してくるから、何かあったら携帯に連絡しておいてね」
「はい、わかりました。 和泉主任は今日は戻りますか?」
「そうね....どうしようかしら....」
「なにかあったらメールしておきますよ。 それに金曜日ぐらい早く帰って下さ
いよ」
「ありがとう、それじゃあ終わったら電話するから」
「はい、わかりました」
「じゃあ、行ってくるわね」
「行ってらっしゃい!」
雅は部屋を出ると、エレベーターホールに歩いていった。
166cmの身長にパンプスを履くと雅は170cm近くなる。 雅はグレーの
スーツを見事に着こなし、実際にも、そして見た目にもキャリアウーマンそのも
のであった。
18歳からこの会社に就職して23歳の5年間、ただひたすらに仕事をした。
それには理由があった。
雅の肉親は深雪という19歳の妹と雅隆という16歳の弟だけである。
3姉弟の両親は既にこの世になかった。
身体の弱かった母親は雅隆が3歳の時に小さい子供達を残して他界してしまった。
雅が10歳の時だった。
タクシー運転手だった父親は妻が死んだ直後は腑抜けのようになっていたが、突
然馬車馬のように仕事をし始めた。
雅の目には、睡眠を削りながら仕事に没頭する父親の姿が母親の事を必死で忘れ
ようとしているかのように映っていた。
父親は寝ることも忘れたかのようにただひたすらに働き続け、家には寝に帰るだ
けの生活が続いた。
当時10歳の雅が母親代わりとなって妹と弟の面倒を見ながら、家事と学校の掛
け持ちをしていた。
弟の雅隆は母親譲りで身体が弱く、雅と深雪は子供ながらに一生懸命弟の面倒を
見たのだった。
それから7年後、寝る間も惜しんで働いた無理がたたって父親が自動車事故で他
界してしまい、ついに子供達だけになってしまった。
原因は居眠り運転だったのだが、客も乗せておらず誰も巻き込まなかったのが唯
一の救いであった。
雅が17歳、深雪が13歳、雅隆が10歳の時であった。
このときに初めて雅は母親が死んだときの保険が手つかずになっていたこと、そ
して父親が多額の保険をかけていて、受取人が雅になっていることを知った。
そのことを聞きつけて3姉弟を引き取ると言って親戚連中が押し寄せてきたが、
雅はその時すでに3人で生きていく決意を固めていたのだった。
父親の保険金で家のローンを全額支払う事ができ、生活費と妹弟の学費も母親の
残してくれたお金で何とかなることがわかっていたが、雅は進学を諦めて就職す
る事にした。
雅隆の身体が弱く、医者にかかることが多かったので、遺産を食いつぶしてしま
うことができなかったのである。
雅はアルバイトをしながら高校を卒業すると、すぐに今つとめているコンピュー
ターのパッケージソフト販売の会社に就職した。
それから5年、雅は父親同様がむしゃらに働き、4人の部下を持つ主任になるこ
とができた。
母親が死んでから妹と弟のために生きてきた12年は雅にとってあっという間で
あった。
父親が亡くなった後に深雪と雅隆の進学があり、若い雅は同じ世代の若者達と違
った悩みを多く抱えたが、可愛い妹弟の成長する姿を見ることが雅のなによりの
喜びであった。
会社では仕事に厳しく、部下にも、そして何より自分に厳しいビジネスウーマン
である雅も、家に帰ると優しい姉に戻るのであった。